(全文は上記サイトにて)
戦国の「天草五人衆」 居城の姿は? 「上津浦城跡」を初調査 棚底城跡と関連深く 天草市 「城郭群を国史跡に」
天草市有明町にある中世の山城「上津浦(こうつうら)城跡」の歴史に迫ろうと、市が初の発掘調査に乗り出している。戦国時代に天草を治めた「天草五人 衆」の一人、上津浦氏の居城で、これまで全体像や遺跡としての価値は不明のままだった。2009年に国史跡に指定された「棚底(たなそこ)城跡」(同市倉 岳町)は上津浦氏の支城とされる。市は将来的に、五人衆のうち市内にある栖本氏の居城の発掘調査も進め、両氏の広域的な城郭群として国史跡の追加指定を目 指す方針だ。
(略)
発掘調査は12年度からの3年計画。まず今年1月から3月にかけ、本丸跡とされる場所で試掘溝を7カ所掘った。主に15世紀の中国製の青磁などの陶磁器、建物跡の柱穴の列、地鎮祭に使われたとみられる牛の頭骨などが見つかった。
13年度の秋以降に本丸、二の丸跡とされる場所を調査し、来年度に報告書をまとめる。その後、栖本氏の栖本城跡(同市栖本町)の調査を3年計画で実施する予定。
市外にある残り2氏の居城のうち、大矢野氏の大矢野城(上天草市)、志岐氏の志岐城(苓北町)は、2市町がそれぞれ独自に発掘調査などを行っている。
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そもそも 天草五人衆とは?
戦国時代に天草に割拠した豪族。
天草氏、志岐氏、大矢野氏、栖本氏、上津浦氏。
1589年 宇土城主 小西行長は宇土城改築の手伝いを5人衆に命じたが、これを拒否。小西、加藤清正の連合軍に攻められて敗退。その後、5氏とも領主の地位を失った。志岐氏は(志岐麟泉)は薩摩にのがれ、残り4氏は小西行長の家臣になった。
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天草出身なら 上記5氏の名前はすべて知っている。苗字というよりも今も地域の名が残っているので、知っているのだが、歴史背景を調べるとさらに室町時代まで遡るとこの五氏に加えて長島氏、宮路、久玉氏の八氏の豪族がいた。
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天草の歴史を非常に詳しく書かれているサイトを見つけましたのでご紹介。
天草探見 (TOPページ)
天草の歴史をここまで詳しく書かれたサイトは初めて見ました。
自分のサイトでも天草の歴史はのせて行くつもりだったので、今後ぜひ参考にさせて頂きたいと思います。
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